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「ゲド戦記」

2006.8.3

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スタジオジブリ発、宮崎駿監督の長男である宮崎吾朗氏の第1回監督作品「ゲド戦記」観賞。


監督・脚本:宮崎吾朗 プロデューサ:鈴木敏夫 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン 主題歌・声優:手嶌葵 声優:岡田准一、田中裕子、小林薫、夏川結衣、香川照之、内藤剛志、倍賞美津子、風吹ジュン、菅原文太 上映時間:115分 配給:2006日/東宝


この映画は一幅の掛け軸のようだ。


示唆に富んでいるというよりは、メッセージそのもの。


その掛け軸には——


「人は自然の均衡のなかにあり」


——と書かれている。


説教がましい、と感じる人もいるだろう。


ただ、それほど強いメッセージを放ちながらも、じわじわと物語に惹きつけられるのは、抑制を利かせた演出と、賢者にして魔法使いのハイタカ(ゲド)の人柄によるところが大きい。


ハイタカは必要以上に言葉を話さないものの、ときおり語る言葉にムダはなく、語り口もソフト。そして、他者に対する慈悲深いまなざしを持ち合わせている。


父、宮崎駿監督の作品ほどの軽妙さやメリハリには欠けるが、登場人物たちが抱える悲哀や葛藤、彼らが生きる世界の暗部を浮き上がらせる手腕は、父に負けず雄渾である。


現代社会が排斥しつつある、古老たちによる、あって然るべき説教や老婆心。その代役(憎まれ役?)を進んで買って出たかのよう作品である。


人間は、人間の歴史を10万年として、それを1日24時間にたとえると、ほんの2分前までは、人間らしい生活を送っていた。


ところが、この2分のあいだに生活を一変させ、多くのモノを壊し、手放してきた。


その最たるは、宇宙の法則・均衡、すなわち「自然との共生」である。万物の霊長という欺瞞の旗のもとで不遜の限りを尽くした、ここ2分。


この映画は、そのわずかなあいだに消し去られたもの、その累々たる屍に向けて放たれたレクイエム(鎮魂曲)なのだろう。


異常気象、貧困、差別、疫病、干ばつ、奴隷、権力、ドラッグ……この物語の背景に横たわる世界は重苦しい。一見健康そうな街のなかにも、世界が抱える重苦しい足音が忍び寄っている…。


この物語には、現代の言葉で表すならば“統合失調症”とでも言える少年(アレン)や、強欲な暴君そのものである魔女(クモ)ら、心の均衡を欠いた人々が登場する。


しかし、彼らはけっして特別な人ではない。


彼らのような心は、私たちひとりひとりの心のなか、あるいはハイタカの心のなかにとて、多かれ少なかれ住み着いているものである。


それは、自分のものでありながら、自分の“影”のように実存に乏しいもの。


もっと言うならば、本来、自分のなかにしまい込んでおかなければいけない門外不出、禁断の“影”である。


通勤電車がカーブで脱線し、強度不足のマンションが乱立し、ある少女は母の手により川から突き落とされ、ある少女はプールの排水溝の餌食となる…。戦争、事件、事故、食害、環境汚染、鬱病、汚職、災害…。


そうした現代社会が抱える重苦しい現実は、この作品のなかで、姿、カタチを変えて描かれている。


とりわけ、プロローグに登場する“共食いをする龍”は、それら重苦しいニュースの元凶である「不均衡」の象徴にほかならない。


日本人の年間の自殺者は3万人だっただろうか? 一方では、多くの老人がベッドの上で体中にチューブをつながれ、人生というにはあまりに孤独な延命を余儀なくされている。


それが現実だ。


がしかし、私たちは本当にその現実を放置しておいていいのだろうか?


「生」というものは、簡単にスイッチをオフにしていいものでも、かといって、単に心臓が動いていればいいというものでもないはずである。


「生」を軽んずる少年アレンや、「生」をむさぼる魔女クモ。両者のベクトルは180度逆のようで、実は同じ方向を向いている。


どちらも「自然の均衡」に従っていないという点において。


そうした不均衡を内包する人物たちが、真の「生」の意味に目覚め、再生していくまでのプロセスが、この物語にはつづられている(魔女のクモは再生に至らず破滅を迎えるが…)。


ハイタカは世界の「均衡」を取り戻すべく旅を続けている。ハイタカにとってクモという魔女は、あくまでも「不均衡」という氷山の一角にすぎない。


ハイタカは、魔女の後ろに広がる、ウン千ウン万(しかしそれらは数珠つながりになっている)の「不均衡」と向かい合っているのである。


「不均衡」


そのなかに、人間の存命はありえない。


と、この掛け軸は語っている。


しかも、暗喩でも、パロディでも、仮想でも、イメージでもなく、より直接的な言葉として。


宮崎吾朗監督は、特効薬を作りたかったのかもしれない。


極度に歪んだ現代社会にバランス(均衡)を取り戻させるきっかけとなりうるものを。


あるいは、そんな特効薬が用をなさないほど社会の病巣は末期症状へと移行しているのか、……そこまでは計りかねるが。


いずれにせよ、最終的にアレンがハイタカの助けを借りることなく再生したのと同じように、ひとりひとりが心の「不均衡」から脱却し、再生しないことには、世界の均衡は取り戻せないということ。


掛け軸に書かれたメッセージは、簡潔にして的確。だが、それを行動に移すことはたやすくはないだろう。


なによりもまず、勇気が必要だ。


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