「ダ・ヴィンチ・コード」
2006.6.12

公開中の映画「
原作:ダン・ブラウン 監督:ロン・ハワード 音楽:ハンス・ジマー 出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリナ、ジャン・レノほか 上映時間:150分 配給:2006米/ソニー
今回は指摘批評をば。
映画を見終わって、ふと思ったのは、
今さらで恐縮ながら、
小説の映画化はなぜ行われるのだろうか? という極めて単純な疑問である。
そして、私はその第一義的な理由を“文字言語にはなしえない視覚的表現が可能ゆえ”と考えた。
では「ダ・ヴィンチ・コード」で“視覚的表現”が楽しめるものとは何だろう?
登場人物のふるまいや表情は言うまでもなく、たくさんの歴史的絵画や歴史的建造物、ソニエールの死体の姿、ソニエールが製作したクリプテックス、本作の象徴ともいえる“剣と杯”……等々、さまざまに考えられる。
読者の想像に頼るしかなかった小説の限界を、カバーするという意味において、「ダ・ヴィンチ・コード」は、実に映画化するに値する作品だと思う。
が、しかし。
映画を見た限り、最低限の視覚的表現、それ以上の見るべき点は、ほとんど見当たらなかった。
むろん駄作ではない。
なぜなら原作がずば抜けて面白いから。
駄作になりようがない。
ただし、考えられる範囲で、最も凡庸な作品ではあったと思う。
小説の映画化に際して最も大事なことは、中心(テーマ)をどこに置くかだろう。言い換えれば、“何を盛り込んで、何を切り捨てるか”ということ。
とくに長編小説の映画化の場合、すべての物語を盛り込もうとしたらどうなるだろう?
せわしなく、浅く、説明的な作品になりかねない。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」は、まさしくその3拍子を揃えた作品であった。
小説「ダ・ヴィンチ・コード」の面白さを3つ挙げよう。
「キリスト教やシオン修道会にまつわる知られざる秘密」と「歴史的絵画に秘められた秘密」と「ソニエールが残した暗号とその解読」
いかがだろうか?
乱暴な言い方をすれば、そのほかの出来事は、主役を引き立てるツマミのようなものである。
ところが、映画「ダ・ヴィンチ・コード」は、原作に忠実に紡がれた結果、ツマミの多くをそのまま盛むというミスを犯した。
たとえば、小説「ダ・ヴィンチ・コード」で、主役のラングトン教授とソフィーは警察に追われる。命も狙われる。そして、ふたりは必死に逃げる。
もちろん、小説的には、こうしたドラマも面白いのだが、先に挙げた3つに比べれば、その面白さは雲と泥ほどの差がある。小説的には絶妙かつ効果的なサブストーリーであっても、時間的な制約が加わる映画的には、ツマミ同然である。
ところが2時間半におよぶ劇中、約2時間を割いて、警察は執拗なまでにふたりを追いかけ、そして、幾度となくドンパチがくり広げられる。
しかし、それらのシーンにはまったく緊張感が感じられない。
警察がいくらふたりを追いかけようとも、観客はちっともヒヤヒヤしないし、ふたりに幾度となく銃口が向けられても、これまたちっともドキドキしないのである。
あたり前である。
ツマミのドラマに関心を寄せている人など、ほとんどいないのだから。
正直、すべての銃がオモチャにしか見えなかった(苦笑)。あれなら、3秒だけ北野武に本気で銃を構えさせたほうが何百倍もドキドキするだろう。
警察とのイタチごっこがいかに(映画的に)不要であるかは、あのジャン・レノにまったく存在感がなかったことからも明らかである。
ジャン・レノが悪いわけではなく、ファーシュ警部という登場人物に、必然性がないだけの話である。
いや、トム・ハンクスにしても、決して存在感があるとは言えなかった。
致し方あるまい。
(映画的に)不要なシーンが詰め込まれすぎているため、役者が本領を発揮する余地が残されていないのである。
結果、史上稀に見る面白さの謎解きが、見事におざなりになってしまった。
たとえば、冒頭のルーブル美術館では、ソニエールが残した暗号を、ラングドンやソフィーがいとも簡単に解いてしまう。
おいおい待て!
小説のあのプロローグほど読者をのめり込ませたシーンはないはず。その重要なシーンをいとも簡単に端折った(一応描かれてはいるが…)。あれでは暗号を残したソニエールもかたなしである。
逆に、宗教史学者であるティービングの家で「最後の晩餐」についての解説が行われるあたりは、映像的なアドバンテージを生かしていたと思うし(合成はチープだったけど…)、キリスト教にまつわる知識や知られざる謎が、少しずつ表面化してくるくだりにも、ワクワクするものがっあった。
何をいわんや——
「象徴学者」と「キリスト教の聖杯に詳しい宗教史学者」、そして「司法警察暗号解読官」という賢者・識者が3人もいるのだから、醍醐味である謎解きや暗号解読を中心に据えることはできなかったのだろうか?
銀行を回るシーンも不要だし(チューリッヒ保管銀行の支店長も不要の人物)、飛行機にも乗らなくていいし、何なら、思い切って、シラスをはじめとしたオプス・デイの話も削っても良かったように思う(せめてシラスのシーンは半減に)。
いや、削るだけの価値があると思うのだが…。
もっといえば、ドラマ「24」のような分刻みのジェットコースター劇に仕立てる必要もなかった。要するに、原作にばか忠実すぎて、映画脚本としての“能”がないのである。
いかがだろうか?
小説の映画化としてはもっともリスクを冒していない作品が、映画「ダ・ヴィンチ・コード」である。
NO TRY NO GAIN!
問題は映画の作り手が、何がこの小説の肝要で、何がツマミなのか、その境界線を把握していないことに尽きるだろう。あるいは、原作を忠実に再現することを前提でしか映画化OKが得られなかったのかもしれないが……。
何度も言うようだが、「ダ・ヴィンチ・コード」の魅力は「謎解き」「暗号解き」であり、間違っても活劇ではないと思う。
小説に100面白さがあったら、映画化に求められるのは、そのうちの主要な5や10を、視覚的アドバンテージを生かしつつ、小説以上の面白さで表現することではないだろうか。
それが私が考える“小説を映画化する価値”である。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」のよかった点としては、警察とのドンパチが終了したのち最後の20分、ラングドンとソフィーが大きな歴史的真実を知るくだりである。それまでのせわしない追いかけっこが終り、演出にも役者の演技の「間」や表情にも断然余裕と豊かさがあった。
あの20分を1時間に延ばすくらいの気持ちで、脚本化が行われていたなら、どれだけ面白い映画になったかと思う。
カンヌ映画祭で観客から失笑がおきたというのは、おそらく作り手のチャレンジ精神のなさに対してだったのだろう。
クリエイティブさのカケラもなく、文字言語→映像の単なる焼き直しにすぎなかった映画「ダ・ヴィンチ・コード」に対する、小説「ダ・ヴィンチ・コード」の一ファンから愛情を込めての苦言は、以上。
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