日本発ドイツ行きの社会
2004.11.2
「日本はドイツに向かっている」あるいは「ドイツに向かっていかなければならない」という話を最近よく耳にする。
ドイツといえば「マイスター制度」。12歳まで学校で基礎学力を身に付けた子供たちは、その後、あらゆる職種の中から自分の能力や適性に合った職業を探すようになる(大学進学率は25%)。
15歳になると多くの子供は就職をし、3年ほどその職業に関する理論を学ぶ(学費は企業が負担)。そして資格試験に合格すると一人前の給料が支払われるようになる。
さらに5年ほど実務を経験してから、一度勤めていた企業を退社し、マイスター試験の合格を目指して1年ほど専門学校で勉強。試験をパスすると、押しも押されもせぬ立派なマイスターとして世間で認められるようになる……。
「マイスター制度」とは、まあ、こういう制度である。
細かいシステムの中身はともかく、職業選択の自由を尊重しつつも、一人ひとりの個性と能力を引き出すにことを最優先に考えた上質のヒエラルキー社会であることは間違いない。さまざまな価値観をお互いに認め合える社会。それは、世の中にピラミッドは一つしかなく、一流会社に入社することがその頂きに登るためのチケットだと勘違いしていたかつての日本式社会と大きく異なる点だ。
だが、かつての日本式社会はすでに崩壊して久しい。バブルを最高点とした右肩上がりの経済が終焉を告げると同時に、日本経済の象徴であった終身雇用や年功序列は音を立てて崩れた。一流大学を出て一流企業に入れば高額の収入がもらえ、社会的にも評価されるという「おかしな」時代が終わったのである。厳しい時代の到来という見方もあろうが、ある意味、ようやく健全な世界に戻った、という気もする。
そして、「ドイツに向かう」という話。
「ドイツ」の「マイスター制度」が完全な模範とは言わないが、“企業が守ってくれる”という幻想が消えたいま、自分自身に何らかの能力や専門性、付加価値をつけるよりほか競争に生き残っていけないことだけは確かだろう。
そもそも“企業が守ってくれる”という考え方こそ不健全なものはない。どんなサラリーマンであっても、企業と個人は契約のもとに成り立っている対等なパートナーであり(少なくとも表向きは)、主体は「個」であって然るべきである。これまでの日本にはその「個」の主体性が欠落していたように思う。
ドイツ式社会に学ぶものが、「個」の能力を引き出しやすい環境の整備であるならば、そのことは、歓迎こそしても、悲観すべきことではないだろう。
とはいえ、これまでに職人や突出した能力の芽をことごとくつぶしてきた日本社会が、そうした環境を整えるためには、意識改革も含めて、まだまだ長い時間がかかるだろう。それだけに、せめて向かう方向だけは間違ってほしくないと思うのだ。
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