「生物と無生物のあいだ」
2008.2.24

「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一著(講談社現代新書・740円)/2007年刊行
分子生物学の研究者である福岡伸一氏の著作。話題を呼んでいるベストセラー本だ。
研究者の書く本は、お堅くて難しいのが常だが、本作はそのイメージを打ち破る快著である。書いてあることは分子生物学の領域につき、決して易しくはない。ただし、一般人にまったくなじみのない分子生物学にまつわる研究成果やエピソードを、必要最低限の専門用語と平易な文章を用いて書きつづり、なおかつその本質を伝えようと試みた本は希有だろう。
テーマや構成はもちろん、筆致のセンスがピカイチだ。「人は瞬時に生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも生命とは何か、皆さんは定義できますか?」そんな問題提起からスタートする本書は、ロジック一辺倒なお堅い専門書と一線を画し、全体が壮大なドラマ仕立てになっている。微生物、ウイルス、DNA、酵素……等々、ふだん決して私たちが目にできない、だが、確実に私たち一人ひとりの体内と深くかかわっている、あるいは、私たちそのものと言ってもいいかもしれないモノの正体に肉薄していくなかで、読み手は知的好奇心を大いに刺激させられ、知らぬ間にミクロな科学の世界に引きずり込まれていく。
SF? それともミステリー? と思うほど読み物としても楽しめる。しかも、大先生風な講釈は見当たらず、文体と比喩には、みずみずしい感性と詩的な美しさが散見される。分子生物学についての本であるにもかかわらず、読み手はまるで良質の文学に触れているような錯覚に陥る。
また、「生命とは何か?」という神秘的な問いかけに対する答えを、“神秘”を盾にした感情的な推論に押し込めることもなく、いかにも研究者らしく、科学的なロジックを積み上げた結果として論じている点にも好感が持てる。読者が混乱しそうな部分については、二度三度と粘り強く説明をくり返す(この意図的なリピートのさじ加減が実に絶妙)。そのおかげで、読み手は、分子生物学という、本来であれば理解が及ぶはずのない領域について、ぼんやりとその灯りを見ることを許されるのである。
一方で本書は、著者がこれまでに歩んできた研究者としての経歴から、分子生物学の歴史における重要なエピソード、さらには子細な研究プロセスまでをも織り交ぜた多重構造になっている。なかでも、研究者社会のシステムとその功罪についての赤裸々な記述は、読み手をまた違った意味で興奮させる。
たとえば、次のような文章は、本来、その世界の内側に身を置きながら書けるものではないだろう。
<助手に採用されるということはアカデミアの塔を昇るはしごに足をかけることであると同時に、ヒエラルキーに取り込まれるということでもある。アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く陰微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手——講師——助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする>
こうした文章を読んだだけでも、本書のおもしろさと、詩的で鋭角で物怖じしない著者の、研究者兼モノ書きとしての素養の高さをうかがい知ることができる。
「生命とは何か」という問題提起に対して著者が検証を重ね、導き出した答えは、もちろん分子生物学の範疇から逸脱したものではなく、ゆえに——説得力は感じても——物足りなさを感じる人もいるかもしれない。ただし、「そもそも生命とは何か」という、ある種哲学めいた問題提起同様、その答えを透かして見えてくるものは、決してサイエンスのロジックだけで補完できる類のものではないし、そのことは、著者自身が本編やエピローグの行間ににじませている。いずれにせよ、“サイエンス”と“神秘”が今まさにイコールで結ばれる、その瞬間の一歩手前にまで読者を誘うことに成功した本書の功績は、私ごときが讃えるまでもない。
結局、“サイエンス”と“神秘”はイコールで結ばれそうで結ばれない。いや、結ばれているその結び目を人間がとらえられずにいるだけなのかもしれない。前人未到の地なのか、夢物語のアトランティスなのか……それはダレにも分からない。ただし、そうした(科学の限界とも言いたくなるような)事実を諦念としてとらえるのではなく、新たな研究の活力に換えることができる人たちが、研究者という生き物であることもまた事実だろう。本書「生物と無生物のあいだ」は、そうした研究者の飽くなき探究心にフォーカスしているという点においても、一読に値する一冊である。
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