髪が赤けりゃ個性なのかい?
2005.6.13
最近、個性ということについてよく考える。とくに教育現場で言われる「個性重視」という趣旨の考え方はどういうことを指すのだろう、と考えてしまう。
個性とは一体何なのだろう。少なくとも私は個性というのは、それだけでは成り立ちえないものであり、常にその人に対する客観的評価に付随するものだと思っている。
志茂田景樹は奇抜なファッションで有名な作家である。しかしながら、もしも氏が直木賞作家でも、あるいは著名な作家でもなかった場合、あの奇抜なファッションは、ただの奇行のように思われ、世間一般から「アイツは頭がおかしい」「変人だ」などと、よろしくないレッテルの一つでも貼られたことだろう。
ところが、現在、世間的に氏のファッションは良くも悪くも「個性的」というくくりで評され、一部の人々の間では崇拝さえされている。これは何を意味するのだろう?
単刀直入に言うならば、人間は他人(より大多数であればあるほど)に何かを評価されたときから、「個性的」と呼ばれる権利を手にするのだと思う。
サッカーの中田英寿のマスコミに対する冷めたコメントは、その部分だけをクローズアップするならば「偉そう」と取られても致し方ないと思う。ところが、世間一般では「まあそれが彼の個性だから……」と寛容なまなざしを送っている人も少なくない。
なぜ世間は中田に寛容なのだろうか? 簡単な話である。中田英寿は一流のサッカープレイヤーだからである。志茂田景樹のファションがOKなのは、氏が認められた作家だからである。
個性のことを「常にその人に対する客観的評価に付随するもの」と言ったのは、そういう理由からである。
残念ながら、現在、教育現場や大人たちの間で「個性的」という言葉が使われるとき、この法則・カラクリについては何も触れられず、ただ単純に他人と違う格好をすることや、行動をすることだけを「個性的」と呼んでいるような気がしてならない。
髪を真っ赤に染めることが個性的なのだろうか? 何度もいうが、その人が世間一般や周囲の人々から認められる何か(人間性、精神性、人柄、実績、経験など)を持っていない限り、それは、個性的でも何でもなく、単に髪が赤いだけである。
「個性的な人間になりなさい」というのは簡単だが、「個性的」な人間になるために何が必要なのかを教育者や大人たちはもっと明確に理解・認識し、そしてアナウンスするべきではないだろうか。
どんなものでも構わない。他に認められる何かを持つことこそが、「個性」そのものだということを。
「自由」についても「個性」と同じように、漠然とイメージが語られるばかりで、何が自由なのかを明確にしている教育者や大人が少ないように思う。結果、世間のルールやモラルに反することがカッコイイことであり、それが「自由」なのだと勘違いさえされている。
「個性重視の学校教育」「自由気ままな校風」も構わないが、本質を素通りしているなら本末転倒もいいところである。
この世の中に「個性」や「自由」ほど手に入れにくいものはない。もしもそれらを手にしたいのであれば、自分を磨き上げ、他者や世間に認められる存在にならなければならない——
——そう教えるべきではないだろうか。
トラックバック
トラックバックURL:
http://yamaguchi-takuro.com/mt/mt-tb.cgi/42