黒い雨
2002.8.9
高校生のとき、学校の映画観賞会で映画『黒い雨』を観た。井伏鱒二が書いた同名の小説を今村昌平が映画化したものだ。たしか、修学旅行で広島に行く前の事前学習の一環だったと思う。
原爆投下後に広島に行き、黒い雨に打たれてしまう二次被爆者の主人公を田中好子が演じた。モノクロームで綴られた淡々と流れる物語だった。エンターテインメント性の低い重たい映画だった。ただ、白黒のスクリーンに降る黒い雨の異様な物質感、そして、風呂場で自分の髪がバッサリと抜け落ちるシーンで主人公が浮かべた笑みが、妙に胸に張り付いた。
観賞後に提出した私の映画感想文が、しばらくしてから全校生徒に配られる冊子上に掲載された。どういう内容のものを書いたのか、その全編は覚えていないが、不思議と最後の一文だけは覚えている。「もしこのような過ちがもう一度繰り返されたならば、人間という生き物は本当にバカだ」。精一杯の主張だった。
その感想文を書いてから十年以上の時が経った今でも、そのときの気持ちに変化はない。が、その結論にたどり着くまでのプロセスは10年前とは少し違う。高校生の自分は、戦争を起しているもは不正義だと思っていた。ところが、十年という時のなかで私は、正義によってもたらされる戦争がいかに多いかを知った。いや、戦争をしている当事者にとって主観的な不正義は存在しないといっていい。
一触即発と言われているアメリカとイラクは、それぞれに正義を主張している。カシミール国境地帯、イラン対イラク、パレスチナ、アフガン…。圧倒的な軍事力を誇るイスラエル軍に対するパレスチナ人の自爆テロには、民族を主張し、守る方法を自爆テロ以外に見つけられないでいる彼らの苦悩と焦燥を感じる。彼らが抱えているものも間違いなく正義であろう。
しかし現実には、テロは無差別殺人という大罪だ。戦争はいつでも人間が抱えている「矛盾」を浮き彫りにする。テロはよくない、戦争はよくない、原爆はよくない、人間はバカだ——そう断言することは簡単だが、それだけでは根本的な「矛盾」を乗り越えたことにはならない。
「黒い雨」にNOを突きつけた十年前の少年を褒めてやるのはいいだろう。ただし、ひとつだけ注文をつけたい。「黒い雨」が何ゆえ降り、また、降らないために何をすべきなのかを次に考えなさい、と。さもなければ、キミが「黒い雨」を降らす側に回る可能性すらあるのだよ、と忠告したい。
戦争にはいつだって、味方と敵、2つの主観的正義が存在するのだから。
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