「冷静さ」を欠いていたスポコン精神
2002.8.12
連日、甲子園では高校球児が奮闘している。日本の夏の風物詩の一つだ。
私も高校球児だった。汗まみれ泥まみれになって打ち込んだ青春には、たくさんの楽しい思い出が詰まっている。「継続は力なり」という言葉の意味を身をもって知ることができたのも、野球をやっていたおかげである。
ところが、年を重ねるごとに、あのころの自分や、自分が没頭していた世界に疑問を持つようになった。これは時代の流れとともに誰もが感じるものなのか、はたまた自分自身の問題なのか、それすらもよく分からない。とても不安定でつかみどころのない感情であることだけは確かだ。
私の戸惑いは、当時「常識」とされていたことが、実は普遍的な「常識」ではなかった、あるいは「非常識」であったという誤解に気づいたころから始まった。
現役のころ、練習中に水を飲むことは厳禁だった。炎天下の中、たとえ5時間にも及ぶ練習があろうとも、その間、一切の水分補給は許されなかった。それが「常識」であった。理由を考えることはなかったが、おそらくは精神的に強くなるためだろう。いや、そういえば理由らしきものもあった。——「水分を取ると体がだるくなる」——嘘っぱちである。
今ではどうだろう、炎天下で水分を取らずに練習をすることは「自殺行為」とされている。そんな普遍的な「常識」にたどり着くために、いくつもの悲劇があったと記憶する。練習中の突然死。しかし、そんな教訓も身近で起こらなければ、たいして気にも留めない時代だった。死者を「頑張り屋」と称賛する声もゼロではなかった。考えたら恐ろしい話である。当時の私たちは奇跡的に「死に損」を免れてきたに過ぎなかったのだろう。
中学・高校時代の野球部員はみな、スポコン精神至上主義者であった。坊主頭はその象徴だ。ウサギ跳びをした。足を伸ばしたまま腹筋をした。息を止めてダッシュをした。練習中に倒れるヤツは試合のメンバーから外された。先輩からの不条理なシゴキを受けた。自分たちが受けたシゴキを後輩にした。家庭内暴力を受けた子供が、大人になってから暴力をふるう側に回るがごとくの悪しき連鎖は、掃いて捨てるほど転がっていた。
目の前にある「常識」がもしかすると「非常識」かも知れない、と冷静に疑う分別は、残念ながら十代の私には備わっていなかった。「欲しがりません、勝つまでは」——私たちが学んだ「常識」は常にそういうものだった。本音を言えば、すべての思い出を「青春の1ページ」と美化したい気持ちはある。最後の夏に流した涙を信じたい気持ちもある。自分はずいぶんと我慢強い人間になった。試合で結果を残すために最大限の努力を払った。それでいいじゃないかとも思う。
だが、目標を達成するためのプロセスにおいて、その一つ一つの意味を考えずにきたことは、やはり人間形成という点においてマイナスだったと言わざるを得ない。水分補給がなぜ悪いのか? 髪が長くて何が悪いのか? 練習中に「すいません」と先輩に頭ばかり下げなければいけないのはなぜか? ヒジを壊してまで投げなければいけないのはなぜか? そういう疑問を一切無視してきたことに大きな落とし穴があった。
真夏の練習中、倒れるようにトイレに飛び込み、用を足すふりをしてから手を洗った。そして、こっそりとアンダーシャツの袖を濡らした(真夏でも長袖を着なくてはいけなかったのだ)。誰かに見つかってはマズイ。グラウンドに戻り、私は汗をぬぐうふりをしてアンダーシャツにしみ込んだ水を懸命に吸った。何のためだったのだろう……そう思ってしまうのだ。
今でもときどき、10年以上前のあの頃の自分と、自分を取り巻いていた世界のことを検証することがある。おそらく死ぬまで検証し続けるであろう。そうすることでしか、あの頃のマイナスを取り戻すことができない気がしている。
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