米国同時多発テロ、その映像放映の是非
2002.9.11
世界貿易センタービルに飛行機が突撃し、ビルが瓦解していくあの映像がテレビで流れなくなったのは、テロ発生から1週間ほど過ぎてからだったであろうか。放送協定でもあったかのようにピタリと流れなくなった。「刺激的な映像は必要以上に繰り返さない」と各局。小さな子供たちへのショックを配慮しての放映自粛であった。
たしかに、ニュースやドキュメンタリー番組は、子供が見るかも知れないという可能性を省いて作るわけにはいかないので、ある意味、賢明な判断だったと思う。小さい子供は、繰り返し同じ映像を見ることで、事件が連続して起きているように錯覚することがあるという。また反対に、道理の分かっている子供たちが、ゲーム感覚の冷めた気持ちで事件と接することも危惧された。
大人たちも例外ではない。あの映像を精神的なダメージを受けることなく見ることは不可能に近い。放映の自粛は、われわれ庶民に過度なストレスを与えないよう、また、一日でも早く日常の安定した精神を取り戻せるよう、テレビ局が敷いてくれたレールだったと考えれば合点がいく。
しかし一方で、今回の事件が人類史上空前の愚挙であったことを考えると「果たしてそれでいいのか?」という疑問も生じる。
あの日を境にして、人類はどう頑張っても、テロ以前の生活に戻れない場所へとステージを移してしまった。これからの人類は、常に大きな不安を抱えて生きることを宿命づけられたのだ。テロをはじめ、核兵器、生物兵器、化学兵器……その恐怖と不安は「対岸の火事」レベルをゆうに超えている。あの映像を流さないことは、事件を闇に葬り去りことにはならないだろうか。
いま大切なことは、人類が共有する不安を現実化させないための努力をすることであり、断じて目を背けることではない。そのためには、多少のストレスやリスクを覚悟をする必要もあるだろう。
今日は2002年9月11日、あの事件からようやく一年が経過した。おそらくテレビニュースでも相当の時間を割き、あのテロを検証していくのだろう。各テレビ局が当時の映像をどう編集するかは分からないが、少なくとも私は、当時のように極度なまでにナーバスな放映自粛をする必要はないと思う。危惧すべきは事件の風化、忘却であり、それらを防ぐ効果的な手段として、条件付きでテロの一部始終を積極的に放映することを支持する。
子供たちが見る見ないは親に責任を一任したい。とにかく、事実を見ること、そして考えること、行動すること、この手順をしっかりと踏まずして人類の希望は薄いように思える。教訓として生かす必要があるにもかかわらず、それを積極的に回避することは、誤りだと言わざるを得ない。
不安を煽ろうというのではない。せめて今日9.11くらいは、一人ひとりが“考えることができる”状況を局側が提供してもいいのではないだろうか。それは、1年前の放映自粛と同じくらいに意味のあることだと思う。
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