No.15「それでもボクはやってない」
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銀幕をさまよう名言集! No.15 2008.3.26発行
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2007年/日本 「それでもボクはやってない」より
痴漢に間違われて裁判にかけられる
ひとりの青年の悲劇を描いた法廷物語。
日本の裁判制度の問題点を浮き彫りにした
周防正行監督の大傑作だ。
『十人の真犯人を逃がすとも
一人の無辜(むこ)を罰することなかれ』
映画の冒頭に登場するイギリスの法格言である。
『疑わしきは被告人の利益に』
という刑事裁判の原則もある。
どちらも、
犯罪の証明が得られない限り、
被疑者(被告人)は無罪である、
という意味だと認識している。
ところが、本作に描かれている日本の裁判の実状は、
そうした原則から大きくかけ離れている。
劇中、ある警察官は、同僚の警察官にこう言う。
白かもしれねえと思ったら、落ちねえぞ!
ある弁護士は、検察官の仕事についてこう言う。
起訴したからには、絶対に有罪を取る。
それが検察官の仕事だ。
ある傍聴マニアは、裁判官の仕事についてこう言う。
無罪を出すというのは、警察と検察を否定することです。
つまり、国家にたてつくことですよ。
そしたら、出世はできません。
つまり、裁判にかかわる人たち(警察官、検察官、弁護士、裁判官)は、
個人的な利益や、利害関係、種々のしがらみに縛られて、
被疑者の有罪無罪を見抜くその目を曇らせているのである。
考えさせられるセリフがとても多いこの映画のなかから、
あえてひとつだけ取り上げるとしたら、
やはり、有罪判決を受けた主人公が、
最後に心のなかでつぶやくこのセリフしかあるまい。
ボクは初めて理解した。裁判は真実を明らかにする場所ではない。
裁判は、被告人が有罪であるか、無罪であるかを、
集められた証拠で、とりあえず判断する場所にすぎないのだ。
そしてボクはとりあえず有罪になった。
それが裁判所の判断だ。
それでも……
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それでもボクはやってない
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そう思い続けながら生きることが、
どれだけツラく虚しいことか、
私たちの想像のおよぶところではない。
それでもボクはやってない
と言い張れるうちはまだしも、
悪夢から抜け出そうと、
虚偽の自白をする人や、
「もしかしたらボクがやったのかも……」と
思い込んでしまう人、
精神に異常を来す人、
自殺をする人……なども出てきて然り、だ。
それでもボクはやってない
えん罪被害者の切実な叫びが、
法廷から消える日は、
果たして来るのだろうか。
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●編集後記
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皮肉を込めて言うなら、
ひとりの無実の人間を、
法のプロたちが、有罪へとじわじわ追いつめて行く、
そのプロセスを描いた作品が、
本作「それでもボクはやってない」です。
なんとも恐ろしい物語ですが、
この作品に込められた日本の裁判制度に対する批判は、
一般人のみならず、
多くの法関係者の心をゆさぶったのではないでしょうか。
日本国憲法の76条3項にこうあります。
「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、
憲法及び法律にのみ拘束される」
裁判官は(いや、裁判官だけに限ったことではないのかもしれませんが)、
自分が従っているものが、本当に“良心”かどうか、
職権を行う際に、本当に“独立している” かどうか、
もう一度確かめる時期にきているのかもしれません。
私の「それでもボクはやってない」の感想はこちらです↓
http://yamaguchi-takuro.com/100/115/post_77.html
【訂正】
前号、No13として発行しましたが、
No14の誤りでした。
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■銀幕をさまよう名言集! No. 15「それでもボクはやってない」
マガジンID:0000255028
発行者 :山口拓朗
●公式サイト「フリーライター・山口拓朗の音吐朗々NOTE」
http://yamaguchi-takuro.com/
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