映画批評「胡同(フートン)のひまわり」
2006.5.30 映画批評
今夏公開予定の「
監督・脚本:チャン・ヤン(「スパイシー・ラブスープ」「こころの湯」) 音楽:リン・ハイ 出演:スン・ハイイン、ジョアン・チェン、チャン・ファン、ガオ・グー、ワン・ハイディほか 上映時間:132分 配給:2005中/東芝エンタテインメント
急速に開発が進められている北京のなかでも、昔ながらのたたずまいを残す胡同(フートン)を舞台に、ある家族の30年を記録した壮大な物語。
主人公は、生まれたときに自宅に咲いていたヒマワリにちなんで“シャンヤン(向陽)”と名付けられた、この家族の一人息子。
わんぱく坊主としてスクスク成長していた少年の生活が一変したのは、9歳のときに、父親が家に戻ってきてからのこと。父親は息子に画家になる夢を託そうと、嫌がるシャンヤンへのスパルタ教育を開始。以来、シャンヤンの父親に対する抵抗が始まった……。
物語はシャンヤンの9歳、19歳、32歳の3時代をフォーカス。大きく変わりゆく中国を時代背景にした構成はダイナミックながら、一方において、時代を経ても、厳格な父親と、父親に反抗するシャンヤンの構図だけが一向に変わらない点が、なんとも皮肉めいている。
親子の“血”の重さをつくづく痛感させられる物語である。
“血”ゆえの、しがらみ、憎しみ、葛藤…。
“血”ゆえの、面倒くささ。
暴君たる父親に必死の抵抗を試みるシャンヤン。が、なかなか父親という壁を乗り越えるところまではいかない。どんなに父に対する憎しみを募らせても、憎みきることができないのが“血”の正体なのだろうか? はたまたシャンヤンの心根が、あまりに優しすぎるのか…。
そんなシャンヤンは、父親の思惑通り画家としてのキャリアを積み、32歳のときに展覧会く。シャンヤンが描いた作品は、シャンヤン自身と家族にまつわるものであった。
シャンヤンの展覧会に訪れた父親は、その後、テープにメッセージを残して、姿を消した。そのテープには、父親が初めて明かした家族に対する思いが収められていた…。
高度成長期のなかで、父親との軋轢にさらされるシャンヤンの姿は、私たち日本人がかつて経験した高度成長期の姿にそのまま置き換えられるだけにリアルである(とくに30歳以上の人にとっては)。
父親(前世代) V.S. シャンヤン(新世代)——その対立は、背景となる高度成長の傾きが急であればあるほど、根本的な価値観の相違として顕在化される。
その昔、多かれ少なかれ父親は厳格であり、子供にとって絶対的な存在であった。
劇中、その不可侵な存在に反旗を翻していたのは、もしかするとシャンヤンではなく、時代のほうなだったのかもしれない——などと書くのは、少々うがちすぎだろうか。
いつの日か、父親が「厳格」でも、「絶対的な存在」でも、「不可侵な存在」でもなくなったとき、本作に描かれているような父と子の葛藤の物語はなくなるのかもしれない。
それは幸せなようで、少し寂しい気もする。
132分間続くシリアスな物語は少なからず退屈さを感じさせもするが、家族の葛藤と絆と愛をテーマにした本作は、とりわけ社会が大きく変貌を遂げた高度成長期を経験した者たちに、特別の感慨と余韻を残すことになるだろう。
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