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「となり町戦争」

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2006.12.15
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新宿ガーデンシネマほかで2007年正月第2弾として公開予定の「となり町戦争」の試写。
原作者:三崎亜記(同作で第17回小説すばる新人賞受賞) 監督:渡辺謙作 脚本:菊崎隆志 撮影:柴主高秀 音楽:Sin 美術:浅野誠 出演:江口洋介、原田知世、瑛太、菅田俊、飯田孝男、小林麻子、余貴美子、岩松了、柴本幸ほか 上映時間:114分 配給:200日/角川ヘラルド映画
絵空事と思って見ればこれほどくだらい作品もないかもしれない。隣町との戦争? あり得ない、と。


ただ、人間とは、宣告や事実を突き付けられなければ、“死”でさえ絵空事に感じてしまう、そんな生き物である。ゆえに、世の中にちりばめられた絵空事や虚構を、真摯に見つめる視点も必要なのかもしれない。
それが絵空事かどうかということではなく、その絵空事という“鏡”が何を映し出しているかということを——。
「舞坂町はとなり街・森見町と戦争を始めます…」ある日届いたとなり町との戦争のお知らせ。偵察業務に就かされた“僕”(江口洋介)は、業務遂行のため、対森見町戦争推進室の香西さん(原田知世)と偽装結婚する。戦時にもかかわらず街は平穏そのもの。だが、淡々と死者の数だけ増え続けている。やがて“僕”にも戦火の影が忍び寄ってくるのだった…。
原作者は「私は反戦小説を書いたつもりはありません」と語っているという。なるほど、たしかにこの作品が描いているのは、直接的な反戦メッセージではない。強いて言うならば、戦争に巻き込まれていく人間の心模様、だろうか。
それにしても香西という女性は無気味である。役所に務めているというだけで、町が決めた「戦争」にまつわる業務を着実に遂行していくのだ。香西の戦争肯定の根拠はこうである。
<住民が選んだ議会が決めたことなのです>
決定的に思考を停止させた人間の姿を、ありふれた日常として描いている。議会が言ったから、会社が言ったから、上司が言ったから、国が言ったから…。それらは主体性の欠如が生む言い訳にすぎない。
興味深いのは、そんな町が始めた戦争に対して懐疑的であった“僕”が、少しずつ香西寄りの思考に陥っていく点だ。が、こちらの場合は香西ほど決定的にではなく、ゆるやかな変化である。本人はそのことに気付いていない。気付いていないどころか、こんな戦争はおかしいと感じながらも、徐々に沼底に引き込まれていく。
「町」という限られた範疇で、徐々に主体性を失っていく人間の姿を描くことで、この作品は「人間」と「社会」の危うい相関関係を浮き彫りにしている。
一方でこの物語は、少しずつ“僕”寄りになっていく香西の姿も描いている。それは、この映画が与えている唯一の「希望」といえるかもしれない。
香西は、偽装結婚中における“僕”との性的行為を任務のひとつとして甘受しているが、そのことが任務だという事実については、“僕”にふせていた。このあたりの心理を読み取るのはなかなか面白い。
“僕”が香西寄りになり、香西は“僕”寄りになる。
人間が洗脳されていくサマと、人間が本来の主体性を取り戻していくサマ。その両者を同時進行で盛り込み、ふたつが交錯する接点に生まれる葛藤や衝突をドラマとして描いたのが、本作『となり町戦争』である。
物語の途中に出てくるスギの巨木は、揺るぎない精神(主体性)の象徴。木だろうと人間だろうと、根がないものは流されてしまう運命にある。
いかにも低予算風の映像は、シーンのつながりにさえメリハリがなく、どこをとっても今ひとつパっとしない。加えて、主人公ふたり以外の取り巻きは、マンガから飛び出してきたかのような演出過剰人間ばかり。間違っても絶賛されるような作品ではない。
ただ、この作品には、言わんとしていることがあり、それが粗削りながらも表現されている点を評価したい。
オレは知らず知らずのうちに戦争に加担していないだろうか?
時折そう自問することは、自分の立ち位置をたしかめるうえで大事なことなのだろう。

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