映画批評「ONCEダブリンの街角で」
2007.10.13 映画批評
11月3日より公開される「
監督・脚本:ジョン・カーニー 製作:マルティナ・ニランド 撮影:ティム・フレミング 出演:グレン・ハンサード(ザ・フレイムス)、マルケタ・イルグロヴァほか 上映時間:88分 配給:2006年アイルランド/ショウゲート
ある日、ダブリンの街角で、男と女は心の通じる相手に出会う。男はギターを抱えて街角に立つストリートミュージシャン。女はチェコ移民で、楽器店でピアノを弾くのを楽しみにしている一児の母。ふたりの距離は、ふたりが愛する“音楽”という共通言語によって少しずつ縮まっていくが……。
路上での弾き語りから物語は始まる。彼のギターのボディには穴があいている。生ギターを弾いたことのある人なら分かると思うが、ギターにはなかなか穴はあかない。それは時間ウンヌンの問題ではなく、ある種の弾き方をしない限り、そう簡単に穴があくことはないのだ。
「ある種」とは、打楽器のようにギターのボディをたたく奏法のことだ。しかし彼は、パーカッションのように意図的にボディをたたいているわけではない。
ではなぜ彼のギターには穴があいているのか?
それは、彼のストローク(ふつうに上下に弦をジャーンと鳴らす奏法)が尋常ではないほど強く、ダウンストローク時に勢い余って右手の小指側の腹でボディをたたいてしまうのである。
ハードタッチなストローク。
彼のハードタッチなストロークには意味がある。それは彼の歌だ。彼はミュージシャンになる夢を未だ叶えられず、掃除機の修理工として生計を立てている。そうした日々のなか、身を削るように歌を作り続けてきた。ゆえに、歌に込めた思いが、おのずとストロークの力に変換されてしまうのだろう。抑制の利かない怒りや寂しさやいら立ちといったものは、とくに。
おそらくそれは主人公を演じるグレン・ハンサード(本職はミュージシャン)の音楽スタイルとも差異ないはずである。たとえ映画のなかとはいえ、彼が名声や人気にあぐらをかく人間でないことは、歌を聴けばすぐにわかる。ボブ・ディランやヴァン・モリソンを敬愛しているという彼のプロフィールも、その証左のひとつではあるが。
そんなグレン・ハンサード演じる男と、男が恋心を寄せる女が奏でるハーモニーで紡がれた本作は、異色の音楽映画といえる。ハリウッドのミュージカル映画でもなければ、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」や「クロッシング・ザ・ブリッジ」のような一国の音楽文化を解き明かしたものでもなければ、ボブ・ディランやカート・コバーンを題材にした映画のようなアーティスト照射型でもない。体裁は物語ながらも、主人公ふたりの気持ちは、セリフではなく、あくまでも歌のなかに込められている。
魂の叫びのような歌が、見る者に静謐な感動を与える。言葉にできないことも、詞にはできる。メロディにはできる。歌にはそんな不思議な力がある。そして、ふたりのささやかな恋を盛り上げる「てこ」として、この力を活用した点に本作のチャレンジ精神がある。
この試みはだれにでもたやすくできるものではない。生き方と音楽に一貫性があり、なおかつ、それを演技として自然に表現できる主演を探さなくてはいけないからだ。その可能性を考えただけでも、この作品がいかに希有な作品であるかがおわかりいただけるだろう。
いい年こいたおっさんミュージシャン(主人公の男)は、やや感情が先走りすぎるきらいがあるものの、その生き方と音楽に対する愛情には一本筋が通っている。そんな彼にしか歌えない歌に耳を傾けてほしい。時折、ほんの一瞬、パっと光る人生の美しさに、目がくらみそうになるはずだから。
彼の歌を過剰に演出することなく、あくまでも物語のワンピースとして自然に盛り込んだ製作者のセンスと気概に拍手を送りたい。ハッピーエンドなのかどうなのか、そんなことは未来の彼らにきいておくれ、的な結末もこの作品にはふさわしい。
本作「ONCEダブリンの街角で」では、音楽——とりわけシンガーソングライターの書く音楽——のひとつの醍醐味である“歌い手と聴き手のシンクロナイズ”を体感することができる。そしてまた、そのシンクロナイズこそが、主人公への“感情移入”として作用するところに、この映画のおもしろさがある。
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