「ソウ4」
2007.11.27
公開中の「
監督:ダーレン・リン・バウズマン 脚本:パトリック・メルトン、マーカス・ダンスタン 出演:トビン・ベル、スコット・パターソン、ベッツィ・ラッセル、コスタス・マンディラーほか 上映時間:93分・R-15 配給:2007米/アスミック・エース
もはやシリーズを熱心に追いかけていない者には見る資格すら与えてくれない人気スラッシャームービーの代名詞、その第4弾。
ジグソウ(トビン・ベル)と弟子のアマンダが死に、ジグソウは司法解剖にかけられる。するとその胃袋からカセットテープが現れた。ホフマン刑事がテープを再生すると、「私が死んでゲームが終わったと思っているのか。違う、これははじまりだ」とジグソウの声でメッセージが残されていた……。一方、前回生き残ったリッグ刑事が新たなゲームに参加させられ、90分以内にゲームをクリアしなければ友人の命はないと告げられる……。
精神的な苦痛と肉体的な苦痛の同居。史上まれに見る犯罪者か、はたまた希代の哲学者か、それとも神様か?と物議を醸し出す主人公ジグソウ。練りに練られた脚本。それに、アっと驚くどんでん返し。いやいやまだある、映像に美術に編集……そんなエトセトラを含めて、魅力を多彩に備えた「ソウ」シリーズ。なかでも、ファンに白熱した議論を巻き起こさせる設定とストーリーは、このシリーズの最大の見どころだろう。
未見の方であれば、「ソウ」を見て議論? 「ソウ」ってホラーじゃないの? と思うもかもしれないが、「ソウ」の魅力は決して血しぶきピュ-のグロさだけではない。魅力の第一には、カリスマ犯罪者野郎ジグソウの存在がある。たとえば、彼が用意するゲームへの参加者選出方法が、彼独自の美学と哲学的根拠に基づいていることは、この作品のひとつの生命線になっている(グロさは二の次、三の次である)。
「ソウ3」の感想(
結論から言うと、「ソウ4」は熱烈なファンが、観賞後にあれこれと議論をぶつけ合うことを前提(というか目的)にした、超マニアックな作品であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。
複雑である。登場人物も多く、トラップも多岐にわたり、時間軸も入り乱れる。そのうえ、あえていくつかの謎については映像としては説明せず、また、肝要なシーンについてはコンマ何秒という瞬間描写のカットで映し逃げする。
もはや「1」~「3」のトラップをかいくぐってきた者にしか理解を許さない徹底したファンサービスぶりには拍手を送るが、それ以外の客をあざわらうように置き去りにする不親切さには、皮肉を込めて苦笑を送り申し上げたい。
シリーズを重ねるたびに見えてくるのは、皮肉なことに「1」の出来栄えの見ごとさである。「1」にもたしかにちりばめられた謎は山ほどある。でもそれは、一部の熱心な映画ファンのために隠しておいた、製作者サイドの“置き土産”みたいなものだったと理解する。
事実、そんな“置き土産”などなくとも、「1」は十分に楽しめる映画であった。地下のバスルームというメインシチュエーションを軸に緊張感のある物語を完結させた手腕。そこで展開されるスリリングな心理戦と肉体的苦痛、そしてダレもがド胆を抜いたラストシーン。そうした幹(みき)が野太く頑丈であった。
言ってしまえば、究極的にシンプルな物語——それこそが「ソウ」だったと思うのだ。
ところが、「4」までくると、「1」でちりばめられていた“置き土産”が、元来あった作品の幹と完全にすり替わってしまった。客を翻弄すると言えば聞こえはいいが、要するに、“置き土産”以外の頑丈な幹(「1」のようなシンプルな物語)を用意することができない末期症状なのだろう。
それは監督のせいでも、スタッフのせいでもなく、そもそも続編を考えて作られたわけではない「1」の設定のなかでしか身動きがとれなくなってしまったシリーズの哀しさといえるかもしれない。続編の「2」~「4」は、よくも悪くも「1」の強い縛りのなかで作られたものである。
ジグソウの後継者を用意するなど、新たな広がりをもたせようという必死さは感じられるものの、ウイルスの伝染ならいつまでもウイルスだが、ジグソウの後継者はジグソウではない。キリストの弟子がキリストではないのと同じように。ジグソウの知性や哲学や思想、そして憎悪のレベルに遠くおよばない人たちが、いくらジグソウのモノマネをしたところで、そこには、切実さが、リアリティが、スゴみが、ない。たとえ、後ろで糸を引いているのがジグゾウだったとしても。
「2」以降で露呈されたかずかずの矛盾や齟齬を、奇抜なトラップと残酷描写でフォローしてきた努力は評価するが、「4」を見て、もはやここまで、と思ったファンも少なくないだろう(いや、そう思ったファンは「2」を見た段階で相当数いたと思うが……)。
野太く頑丈な幹で客を楽しませ、納得させたうえでの“置き土産”なら大歓迎だが、“置き土産”が、あたかも幹であるかのようなふりをする作品を擁護し続けるほど、映画ファンも寛容ではないだろう。
とりわけ、「1」の完全コピー以外の何ものでもない「4」のラストシーンなどは、たとえそれが“最前列で見るのが好き”という本作のテーマを踏襲していたとしても、出口のないシリーズの閉塞ぶりを象徴する産物にすぎない。これ以上、こじつけとマンネリを重ねて、「1」の価値まで下げることはしてもらいたくないが、どうやら「5」も確実に作られる気配である……。
もう見ることもあるまい——。
毎年そう思うのに、来年の今ごろには、また劇場に足を運んでいる自分がいるのだろうか?
映画ではなく、頭でっかちになりすぎたパズルを楽しむがために……。
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