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映画批評「ノゾミの冒険」

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2007.11.30 映画批評
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現在公開中の「ノゾミの冒険」。
監督・脚本・編集:吉田裕亮 製作:林悟史 撮影:山岡辰徳 照明:山本直 出演:安藤匡史、日比涼、渡田井成樹、佐々木愛、坂本匡、すねおがある、高寺裕司ほか  上映時間:75分 配給・制作:2007日/dogfilms
左遷されて田舎の工場長として日々をすごすノゾミ。心は悶々とした曇り空。そんなある日、ノゾミは橋の上で一匹の子河童と出会うが、そのことがきっかけで、ノゾミは人生の終焉を迎えてしまう……。ノゾミは、あの世からむかえに来た死神・安田から避けるようにして、 生き返る方法を探しに子河童と旅に出た……。


モノクロームでつづられた本作は、吉田裕亮の第一回監督作品(大阪芸術大学映像学科2006年度卒業制作作品)である。
ストーリーを簡略すると、<ノゾミという男がいました。彼は死にました>で終わってしまう作品である。つまり、本作品はストーリーを楽しむ映画でもなければ、それについて面白い、面白くないを語る映画でもない。
「ノゾミの冒険」は、生と死の狭間にある中間生で葛藤する男(ノゾミ)の物語であり、見るべきは、彼の“心の移ろい”である。
物ごとは、“視点”を変えることで、風景がまったく違って見えることがある。“視点”は“立場”や“環境”と言い換えてもいい。親と子、大人と若者、男と女、先生と生徒、国と国、お互いの立場を入れ替えたときに見えてくるものは別世界であることも珍しくない。
何をいわんや——、ひとつの“視点”“立場”“環境”から見えてくるものなど、実にわずかだということだ。
そういう意味では、生きるというテーマの視点を対極に据え、主人公を、あえて殺すことから物語をスタートさせた本作「ノゾミの冒険」の狙いは興味深い。生とも死ともつかぬ中間生から、生の世界を俯瞰することにより見えてくる“人生の価値”とは、どのようなものなのだろうか?
中間生には「時間」も「思想」も「夢」も「希望」もない。そして「明日」という概念もなく、「今日」の次は「今日」だという。そんな場所でノゾミは、自分の人生がどれほど貴重なものであったかを、少しずつ理解していくことになる。
仕事があり、愛する妻がいて、抱こうと思えば希望を抱くこともできた貴重な日々。その境遇に感謝するどころか、満たされない思いばかりを抱いていた自分自身を、ノゾミは悔い、ついには、そこに戻れない現実に絶望する。
おもしろいことに、ノゾミが自分の遺体(肉体)を持ち歩いて中間生へおもむく。そこには、彼の生に対する少なからぬ執着が感じられる。“主人(魂)を亡くした抜け殻のような肉体をかついで歩く元主人”。そんな彼が最後に、その抜け殻に火を放つシーンからは、ノゾミの複雑な胸のうちを読み取ることができる。
動かなくなった時計や、ノゾミが冒険の途中で出会う人々、無邪気な子河童、タバコにむせる死神……それぞれに意味シンであり、示唆に富んでいる。観念と抽象のピースをパズルのように組み合わせたおとぎ話のようなこの物語をどうとらえるかは、見るひとそれぞれの人生観や死生観によってまちまちだろう。
本作「ノゾミの冒険」は、間合いを重視しながら、主人公の心模様をじわじわとあぶり出す静的な力強さに満ちている一方で、あらゆる点において具体性や装飾がそぎ落とされているため、(低予算という部分を含めて)この手の作品を見慣れていない方には、単純に、つまらない、面白みに欠ける、と切り捨てられる可能性も小さくはない。
逆を言えば、想像力を働かせれば働かせるほど、何かが見え、感じられ、入り込んでくる、そんな作品といえる。そういう意味では、この作品は、ノゾミの人生と似ているところがある。ただ受け身を貫けば、悶々とした曇り空が続くだけだが、スイッチを能動に切り替えると、いろいろなモノが見えてくる。
生きているときのノゾミが(精神的には)死んでいて、死の領域に足を踏み入れてからのノゾミが生きている。その皮肉を通じて、本作「ノゾミの冒険」は、何かを伝えようとしている。
物ごとを受動でしかとらえられなくなると、いつしかエアポケットに吸い込まれ、死神に声をかけられやすくなる——。人生って、そんなものなのかもしれない。


お気に入り点数:70点/100点満点中

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