「ぜんぶ、フィデルのせい」
2008.1.7
1月19日より公開される「
監督・脚本:ジュリー・ガヴラス 原作:ドミティッラ・カラマイ 出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエほか 上映時間:99分 配給:2006仏/ショウゲート
社会の成長などという簡単なものではなく、イデオロギー自体が大きく変化した1970年代。共産主義思想を筆頭に、世界的に変革の波にさらされたこの時代に、思想や生き方を急激に変化させていく大人たちを皮肉りながら、そんな大人たちの“虚”を、純真なマナコで見つめるひとりの少女(アンナ)の成長を描いた物語である。
いつの時代も子供たちは、「なんで?」という言葉を武器に生きている。それは大人たちが使う理屈っぽい「なんで?」とは違い、純粋な好奇心に端を発する「なんで?」である。そこに理屈や打算はいっさいない。この物語の主人公アンナ(9歳)も、そんな「なんで?」を武器に生きるひとりだ。
アンナは、両親が突如として思想とライフスタイルを変えたことにより、自分の生活が奪われたと感じる。なかには、そうした変化を自然に受け入れる子供もいると思うが、アンナは芯が強いうえに、自分の気持ちをはっきり表現する子供だったため、募る不満を言葉と態度で大人たちにまっすぐぶつけていく。
アンナの言葉を代弁するならば、「冗談じゃないわ、今までの生活に私を戻して!」といったところである。ところが、大人たちの耳には、アンナの切なる思いは届かない。しかも、よくないことに、アンナの「なんで?」に対して、説明責任を果たしていない(とくに両親が!)。でなければ、「子供は大人の言われたようにしていればいいの!」という雰囲気がある。
社会の変革には過剰なほど“敏感”な大人たちが、身近な子供の気持ちに“鈍感”という対比が、なんともピリ辛だ。子供にとって、キョーサン党もファシストも重要でないことに、大人たちは気づかない。
本作「ぜんぶ、フィデルのせい」は、生真面目なアンナの仏頂面(でもこれがカワイイ!)を通じて、そんな大人たちの視野の狭さをユーモアたっぷりに批判する一方、そんな大人たちと少しずつ会話を重ねていくことで、アンナの気持ちが少しずつ溶解し、視界が広がっていくサマも描いている。両親が応援していた政治家が選挙に勝った際に、喜ぶ大人たちにつられて思わずアンナもはしゃぐ。そんな子供らしいシーンが織り交ぜられている点も秀逸だ。
物語の背景には、当時の政治的な変革がリアルに横たわっているうえ、その変革が世界的な規模であることをにおわせる描写も少なくない。がしかし、この映画はそこを楽しむ作品ではない(当時の社会情勢に詳しければ、楽しめるとは思うが)。いや、むしろ、そうした社会情勢に疎いほうが、アンナの視線と同化し、感情移入しやすいといえるかもしれない。
なにしろこの映画は、 悪しき侵略者(大人たち) によって、突如、平和な暮らしを奪われたひとりの少女の闘争と成長の物語なのだから。少女はそんな侵略者に対して孤立無援で戦いを挑んで行く。その健気でいじらしい彼女の一挙手一投足に注目である。
ちなみにフィデルとは、キューバの国家評議会議長(1976年に就任)のフィデル・カストロのこと。
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