「コーラスライン」
2006.12.6
四季劇場・秋でミュージカル「コーラスライン」を観劇。
原作者:マイケル・ベネット 台本:ジェームズ・カークウッド、ニコラス・ダンテ/(日)浅利慶太 演出:マイケル・ベネット/(日)浅利慶太 作曲:マーヴィン・ハムリッシュ 作詞:エドワード・クレバン/(日)浅利慶太、新庄哲夫 翻訳:新庄哲夫 振付:マイケル・ベネット/(日)古澤勇
コーラスラインは1975年にブロードウェイで初演され、76年には九つのトニー賞を受賞。その後ロングランを続け、90年に幕を閉じた。6137回公演は当時の最多記録(現在は「キャッツ」が破り、さらに更新中)。
日本では1979年に初演を迎え、劇団四季を代表するレパートリーとして現在まで公演を継続。2005年から2006年にかけて全国公演を行い、現在東京公演の最中である。
物語は——新作ミュージカルのコーラスダンサーを選ぶためのオーディション会場。演出家兼振り付け師のザックが必要としているのは、男4人、女4人。この8つの役のために、男8人、女9人が最終選考に選ばれた。舞台上には1本のコーラスラインが引かれている。そのライン上に並んだ17人のダンサー。ザックが彼らに問いかける。「履歴書にないことを話してもらおう。君たちがどんな人間なのか——」。
「地味」なミュージカルである。というのも、この作品には大掛かりな舞台装置もなければ、メインになる主人公もいない。物語の大半が“語り”でつむがれている点も「地味」さを強調させる要因のひとつかもしれない。
でも、その「地味」さがこのミュージカルの最大にして最強の魅力である。ぜい肉がそぎ落とされたこの舞台には、徹底したリアリズムが貫かれており、17人のダンサーたちは、舞台上のヒーローではなく、観客と等身大の人間として、そこに立っているようにしか思えないのだ。
ダンスオーディションで、演出家のザックは、最終選考に残った17人に対し、プライベートに踏み込んだ質問をぶつける。ダンスの技量は分かった、けどオレにはもっと知りたいことがある、とでも言いたげに。
初めはとまどっていたダンサーたちであったが、一度意を決して話し始めると、みずから止めていた堰が決壊し、こんどは洪水のように、言葉が、感情が、あふれ出してくる。そして、ダンスオーディションという張りつめた空気から解き放たれるように、ひとりひとりの素顔が表れてくるのであった。
それは、観客からすると、ダレもがうらやむダンス技術をもつ(一見似たような)エリートダンサー17人が、実は、生い立ちも、考え方も、性格も、抱えている悩みやコンプレックスも……なにもかもが、まったく異なる人間であることに気付かされる、そんな瞬間でもあった。
教育者、医者、建築家、エンジニア、飲食店経営者、タクシードライバー、農家、政治家……世にある職種を細かくカテゴライズしようと思えば、国語辞典には収まらないくらいの数にのぼるだろう。職業に限ったことではない。国籍、肌の色、世代、血液型、星座、それから……子供と大人、男と女、金持ちと貧乏、健常者と障害者、都会者と田舎者、ポジティブとネガティブ、独身者と既婚者、正社員とフリーター……etc.
たしかにカテゴライズは、便利で、ラクで、情報として管理しやすい。ただし、それはあくまでも何らかの物事を進めようとするための「省略キー」にすぎない。実力が拮抗した17人のダンサーは、たしかにカテゴリーは「トップダンサー」なのかもしれないが、その一方では、苦しみや葛藤、コンプレックスを抱えながら生きる——われわれ観客と何ら変わらない人間なのである(もちろん、抱えている“モノ”の種類は千差万別だが)。
あたり前のことだが、ミュージカルは通常「舞台キャスト」と「観客」に分かれている。その明確なカテゴリー分けは、ミュージカルというショービジネスにおいて、とても重要なことかもしれない。がしかし、本作「コーラスライン」では、見た目はともかく、少なくとも、登場人物ひとりひとりの精神は、舞台上から観客席に降りてきている。
そこにこの作品のリアリティがあるのだと思う。
もちろん、17人の生い立ちや性格や考え方はバラバラ。共感できる人間もいれば、共感できない人間もいる。素顔をさらけ出せば、そのひとのすべてに共感できるという単純なものではない。ただ、たとえ共感できない人間であっても、その心の内を素直に吐露する、できる、しようと頑張る、その姿に不思議と不快感は感じない。
尊敬できずとも、認めること。
それは、人間関係においてもとても大切なことであり、演出家ザックが仕掛けたこの風変わりなオーディションを通じて、観客はカテゴライズという足かせを外され、先入観をもたずに「個」を見つめ、その「個」を許し、認めようという視線を与えてくれる。
キャストが日本人でありながら、登場人物の設定が原作(アメリカ)のままになっていることは悔やまれるが(日本に舞台を置き換えた「コーラスライン」も観てみたいものだ…)、演出やセットにもライセンスがある限り、致し方がないとしか言い様がない。
「地味」な物語を締めくくる、それまでとは明らかに温度の異なるアップライトなラストダンスは、圧巻といよりほかない。
ワン! ひとつの夢 胸にいだいて——
ワン! ほほえみ持ち 誇り高く——
すき間なく並んだダンサーたちの一糸乱れぬステップと、声高らかな歌声。
満面の笑顔で踊る17人。十人十色な「個」を乗り越えて、大きなひとつの「個」が生まれたときの、理屈では言い表せない強烈なパワーをあびたとき、物語の登場人物としての彼ら(非現実)と、劇団四季で「コーラスライン」を演じるダンサーという彼ら(現実)の姿が、一瞬、同軸上に重なったように思え、不意をつかれるような感動と感慨が沸き上がってきた。
主人公のいない群像劇は、すなわち、全員が主人公である。それは、同じように悩み、葛藤し、挫折やコンプレックスを抱える彼らがトップダンサーになれたように、可能性はダレにでも等しく用意されているという逆説としても解釈できる。それが「地味」さを超越した、「コーラスライン」の深遠なメッセージのように思えてならない。
初見につき、セリフのひとつひとつをかみしめるところまではいかなかったが、おそらく、かめばかむほど味が出る(新たな発見や感動が得られる)スルメイカのような作品なのだろう。リピーターが多いのも納得の傑作である。
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