「奇跡の朝」
2006.8.23
今秋公開予定の映画「
第61回ヴェネチア国際映画祭を皮切りに、27もの映画祭を席巻したというロバン・カンピヨ初監督作品。
監督:ロバン・カンピヨ 脚本:ロバン・カンピヨ、ブリジット・ティジュー 撮影:ジャンヌ・ラポワリー 出演はジェラルディン・ペラス、ジョナサン・ザッカイ、フレデリック・ピエロ、ヴィクトール・ガリヴィエ、カトリーヌ・サミー、ジャメル・バレク、マリー・マテロンほか 上映時間:103分 配給:2004仏/バップ /ロングライド
「不思議」と「不気味」の中間に浮いているような作品である。
つかみどころがなく、多くの解釈を観客に委ねている。
ある朝、フランスののどかな街に、無数の人々が難民のごとく流れてくる…。その数は1万3000人。市議会はパニックに陥りながらも事態の収拾に努めるが…。
流れてきた彼らは——死者。
そう、突如として死者が生き返ったのである。
それが「不思議」。
プロローグでは、どこからともなく湧いてくる人々を、唐突すぎるほど唐突に描き、既成事実化している。
死者の蘇生自体は目新しいモチーフではないが、この作品のように“生前と変わらぬ容姿”で、“何ごともなかったかのように”戻ってくるという設定は新鮮だ。
一歩間違えれば、B級SF映画である。
奇跡的な蘇生を大局的視点(市議会的な視点)から俯瞰しつつはじまった物語は、いつしか3つの個人的なケースへとフォーカスされていく。
■幼くして亡くなった息子を迎える両親。
■事故死した元恋人の男性を迎える彼女。
■長年連れ添った末に先立たれた妻を迎える夫。
しかし、蘇生者には、低体温、失語症、不眠症…など、さまざまな症状があり、生前とはどこか少し様子が違っていた。雰囲気が、目つきが、反応が、微妙に生前と異なる。
それが「不気味」。
この作品に描かれているものは、なかなか興味深い。
物語は、奇跡的な再会を果たした当事者たちに、再び別れを用意することにより、喪失感を色濃く打ち出す方向に進んでいく。
が、そうした喪失感は、適度なカタルシスでこそあれ、本作のメインテーマではないような気がする。
むしろ、冒頭の蘇生によって暗に示される、「もし、あなたの愛すべき故人が生き返ったら?」というシュールかつ哲学的な問いかけこそが、本作の核心だろう。
もちろん、故人との再会に「喜び」があることに異論を挟もうとは思わない。
ただ、至福に浸るだけですまされない現実があることにも注視したい。
現に、蘇生者を迎え入れる当事者の誰もが、その後に始まる暮らしのなかで、彼らとの微妙な心の乖離にストレスを受け、そして、現実的な苦悩や葛藤に直面する。
この作品はSF、ロマンス、パニック、ミステリー、ルポ、寓話、ホラー、ファンタジー…など、いかなるジャンルにカテゴライズすることもできるが、そのいずれであれ、根底に根を張っているのはヒューマニズムではないだろうか。
本作は、蘇生者に対してどこか懐疑的な目を向けている。
“蘇生者は生前と同一人物にあらず”という警笛。
それは「死」というものにより保たれているこの世の秩序に対する、あるいは「死」によって結びつけられる生者と死者の魂のつながりに対する尊重という意味を含んでの、個人的な解釈でもあるが。
と同時に、「死」が、美しく心地よい思い出のみならず、ときとして、お互いのあいだに流れるうんざりするような隔たりをも「懐かしさ」へと変換してくれるリセットボタンであることにも気づかされる。
蘇生という「生」が映し出す「死」の意味を、この映画は観客につきつけている。
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