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「硫黄島からの手紙」

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2007.1.20
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公開中の映画「硫黄島からの手紙」。
監督・製作:クリント・イーストウッド 製作:スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ、製作総指揮・共同原案:ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ。出演:渡辺謙 、二宮和也 、伊原剛志 、加瀬亮 、中村獅童ほか 上映時間:141分 配給:2006米/ワーナー
戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、本土防衛の最後の砦とも言うべき硫黄島に、知将として知られる陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙)が降り立った。栗林は着任早々、島を精力的に歩き回り、米軍を迎え撃つ作戦を練り直す。一方、部下に対する理不尽な体罰をいさめるなど、日本軍に新風を吹き込む。そして、ついに米軍が大挙襲来。果たして日本軍はどこまで持ちこたえられるのか……。


いつもそうだ。
イーストウッドの映画を観たあとは、自分が石像にでもなったかのように、映画館のシートから立ち上がれなくなる。
ひいき目ではなく、すばらしい傑作なのだ、今回も。
現存する偉大な芸術家のひとりであるクリント・イーストウッドが監督を務めたから傑作になったのではなく、すばらしい傑作を撮った監督が、やはり、クリント・イーストウッドなのだ。
「硫黄島からの手紙」に先行して公開された「父親たちの星条旗」は、あえてヒーローとなる主人公を作らずに、“国”という目に見えない怪物に人生を翻弄させられる兵士の姿を淡々と描いた作品であった。
戦争には客観的に100%正しい正義が存在しないことや、戦時中の兵士が、“国”という権力の奴隷にすぎないことが、めいっぱい抑制を利かせた演出のなかで示されていた。
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そして、「父親たちの星条旗」と対をなす「硫黄島からの手紙」。
なにゆえ、イーストウッドは、この「硫黄島作品」をふたつに分けたのだろうか? そこに、意味がないはずはない。
その答えは、「父親たちの星条旗」がアメリカ側の視点で描かれていたことに対し、「硫黄島からの手紙」が日本側の視点で描かれていることに表れている。
言うまでもなく——
——戦争における“善悪”の概念を真っ向から否定するためである。
アメリカ兵に視点をもたせば日本兵は“悪”そのものだが、日本兵からすれば、「鬼畜米兵」の言葉通り、アメリカ兵こそが“悪”である。
視点を変えれば、“善”も“悪”もクルっとひっくり返る。
戦争における唯一の真実とも言うべきその“倒錯”を、相対するそれぞれの価値観のなかにもぐりこませることで、イーストウッドは、見ごと浮き彫りにしてみせたのである。
「硫黄島二部作」を観た日米両国の人のなかで、それでもなお「アメリカ兵は“悪”だ!」あるいは「日本兵は“悪”だ!」と声を荒らげる人は、そう多くはないだろう。戦地に散った悲しき魂に国境はないこと、そのほとんどが、銃弾のえじきになって然るべき人ではなかったことに気づかされた人はいたとしても。
当時のアメリカと日本に共通していることがある。
それは兵士や国民が、国に異議を唱える立場にいなかったことである。いないどころか、主張する権利さえはく奪されていた。当時の倫理観のなかで国に盾つく勇気がいかばかりであったかは想像がつかないが、
強いて言うなら……
……クリント・イーストウッドという名声のある芸術家が、自国を“正義の国”と信じてやまない国民が多数いるアメリカのなかにいながらにして、このような作品を撮ったことは、その勇気に近いかもしれない。
「硫黄島からの手紙」のなかで、伊原剛扮するバロン西が言った言葉がよみがえる。
「正しいと思った道を行け。それが己の正義である」
イーストウッドは、その道を歩んでいる希有な芸術家であり、相対する視点から2つの作品と作るという撮影動機こそが、戦争が抱える矛盾に対するアンチテーゼとなっている点に、手腕の鮮やかさを感じずにはいられない。
もちろん、「硫黄島からの手紙」は、その作品ひとつをとっても、優れた完成度を誇っている。アメリカ人監督が、端々のキャストまでを引き立たせながら、日本人でさえ忘却しているいる古き日本の情緒までをも表現せしめた奇跡のような映画である。
アメリカ留学の経験がある栗林(渡辺謙)はもとより、妻の妊娠中に戦地に赴いた西郷(二宮和也)、ロサンゼルスオリンピックの乗馬競技で金メダルを取った経歴をもつバロン西(伊原剛)、寡黙な元憲兵の清水(加瀬亮)、戦争のカタルシスに酔う伊藤中尉(中村獅童)……。
「父親たちの星条旗」に主人公がいなかったのと同じように、「硫黄島からの手紙」にも確たる主人公はいない。ただ、カメラが向いた瞬間には、一人ひとりの人柄のようなものがクッキリと浮かび出てくるのだ。
そこに、硫黄島に散ったすべての兵士に対するイーストウッドのオマージュがこめられているように思えてならない。
彼らは、「戦死者」という統計上のカテゴリーでも、歴史教科書のワンピースでもなく、それぞれに異なる性格、過去、夢、思想、家族、哲学……をもった人間であり、その一つひとつの命がいかに尊いものであったかを、イーストウッドは描きたかったのだと思う。
その執念が、自分と母国語の違う役者のポテンシャルを最大限に引き上げ、彼らを輝かせたのではないだろうか。
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「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」は、“他者の正義や価値観を否定すること”が対立の火種であることをメタファーとして込めつつも、断定的な明示は避け、観る人に考えさせる余地を残している点においても、たいへん優れた作品である。
それが、自身の主観的な正義を押し付けないというイーストウッドの人生哲学なのか、あるいは、戦争映画がもつプロパガンダ臭を徹底消臭しようという試みなのか、そこまでは分からないが。
主観的な正義や主張を表現しつつも、一方では、「他人の正義と価値観を私は認ます」というイーストウッドの意思表示にこそ、戦争を回避するヒントが隠されているような気がしてならない。
イーストウッドは、映画という“虚”と、映画監督としての“実”の垣根を取り払い、そこに二重の意味を含ませている。
さらに言うなれば、60年以上前に互いに命を奪い合ったアメリカ人と日本人が、同じ硫黄島という舞台で、互いに手と手をとりあいながら、ひとつの映画作品を製作した。
そこに、ダメ押し的な意味を含ませている。
いずれにせよ、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二部作は、アメリカのものでも、日本のものでもないだろう。
希代の芸術家であるイーストウッドの思想もろとも、世界でシェアすべき作品である。
※「父親たちの星条旗」のレビューはコチラ

お気に入り点数:95点/100点満点中

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