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「ゆれる」

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2007.2.25
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ワーナーマイカル(板橋)のアンコールシネマにて、見逃していた2006年話題の邦画「ゆれる」を観賞。
監督・原案・脚本・製作:西川美和 企画:安田匡裕、是枝裕和 音楽・主題歌:カリフラワーズ 出演:オダギリジョー、香川照之、真木よう子、伊武雅刀、新井浩文、蟹江敬三、木村祐一、田口トモロヲほか 上映時間:119分 配給:2006日/シネカノン 
東京で活躍しているカメラマンの猛は、母の一周忌で帰省する。彼は実家のガソリンスタンドを継いだ兄の稔や、そこで働く幼なじみの智恵子と再会。3人で近くの渓谷に行くことに。猛が単独行動している間に、稔と一緒に渓谷にかかるつり橋を渡っていた智恵子が転落する……。


評判に違わぬ作品であった。
人間は感情に支配されやすい生き物である。支配と書いたのは、その感情が確固たる真実や正義に基づいてばかりとは限らないがゆえ。怒り、憎しみ、やましさ、悲観……そうした負の感情に、ときに人間は乗っ取られることがある。
つまり、支配者である感情は、常に柳のようにゆれているのである。ボクやアナタの感情も。一瞬一瞬。
そんな感情の「ゆれ」について描いた作品が、本作「ゆれる」である。兄弟の物語ではあるが、ドラマとしてあつらえられた安っぽい兄弟の絆は、これっぽっちも見当たらない。
感情の「ゆれ」のなかでも最もやっかいな“思い込み”と、そこから生み落とされた悲劇を取り囲むリアルな人間模様を、この作品は描いている。
“思い込み”は、顕在意識ではなく潜在意識に刷り込まれる。そして一度刷り込まれた“思い込み”は、それ自体が、本人にとっての主観的真実となる。固着すれば、はがすことすらできなくなることもある。
こうした人間の否定しがたい性質を内包した物語を、余計な感傷や同情を挟むことも、ともすれば拾い上げたくなるおいしいエピソードに目をくれることもなく、気鋭の女流監督は、シリアスに紡ぎ上げている。
主人公はオダギリジョーと香川照之が演じる兄弟だが、ふたりはヒーローでもなければ、できた人間でもない。相手に対して、思いやりも、思い込みも、期待も、羨望も持ち合わせている、そんな、どこにでもいる人間である。ゆえに、観客はつい無抵抗のまま感情移入させられるのだ。
制作費を何十億とつぎ込んでも、何も残らない映画が多い昨今、赤裸々に、真摯に、真っ向から人間の内面を描いた本作は、多くの観客にとって、忘れがたい1本となるだろう。
結局、(あくまでも個人的にだが…)感銘を受ける作品というのは、同じ傾向をもっているように思う。
常に観客の想像力を刺激し、その結論を観客一人ひとりに委ねる映画である。
“想像力を刺激し”は、“固定観念を溶解させ”、と言い換えてもいい。つまり、意識を撹拌してくれるものである。
家族、人生、恋愛、友情……そうした題材の映画や小説が無尽蔵なのは、おそらく、それらのテーマに画一的な答えがなく、なおかつ、そこに生じる「ゆれ」に、人間の本質を見るからなのだろう。
本作では事故(事件?)の真相解明がひとつのテーマになっているが、そうした謎解きは二次的、三次的な見どころにすぎない。
見逃せない核心は、ひとつの出来事をきっかけにあぶり出される人間の「ゆれ」、そのものである。きっと、その「ゆれ」の大きさをより敏感に感じ取った人ほど、この作品に高い価値を見出すはずである。
兄弟の物語をミステリー風に味つけした本作「ゆれる」は、簡単そうで難しい主題を絶妙な人間描写で照射した傑作だ。捨てカット的な風景やモノの写し方も確信犯的かつ意味シンで、しかも、それらがいちいち美しい。効果音をそぎ落とした丁寧な演出もまた。
2時間19分という長丁場の物語を、冗長すれすれに抑制を利かせ、また、豊かな観察眼をもって描き上げた手腕は、作品のテーマとは裏腹に、日本映画界の未来をも明るく照らすサーチライトのようである。
この映画に描かれている「ゆれ」の“美しさ”と“恐ろしさ”は、いつまでも心に残るだろう。

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