山口拓朗公式サイト

「ツォツィ」

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2007.4.13
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4月14日より公開される2006年アカデミー賞外国語映画賞受賞作品「ツォツィ」。
監督・脚本・製作:ギャビン・フッド 原作:アソル・フガード 出演:プレスリー・チュエニヤハエ、テリー・ペート、ネス・ンコースィ、モツスィ・マッハーノ、ゼンゾ・ンゴーベほか 上映時間:95分・R-15 配給:2005英・南アフリカ/日活=インターフィルム


ぜい肉のないシンプルな文章を、美しいと思う。
「ツォツィ」は、そんな美しい文章のような作品だ。
95分のフィルムのなかに、余計なぜい肉がいっさいない。
映画にぜい肉がないと、たとえ95分でも十分な満足感が味わえる。「ツォツィ」は冗長という言葉とは無縁だ。短いくせに、人を描き、社会を描き、テーマを光らせ、なおかつ深い余韻さえ残す。
アパルトヘイトの名残を引きずる南アフリカのヨハネスブルクに、誰も本名を知らないツォツィ(=不良)と呼ばれる少年がいた。仲間とつるんで窃盗などの犯罪をくり返すツォツィは、ある日、カージャックしたクルマの車内に、生後数ヶ月の赤ん坊を見つける。ツォツィは迷った末、その赤ん坊を紙袋に入れて自宅に連れ(持ち?)帰る…。
経済的、物質的、社会的に恵まれた先進国(日本)に住む者が、差別社会の後遺症や貧富の差、大規模な失業問題などを抱えるアフリカ人の気持ちを理解することは容易ではない。自分が体感していないことを理解するのは、頭では可能でも、心ではほぼ不可能である。
だからといって、ツォツィが犯す犯罪行為を擁護しようとは思わない。とくに、その犯罪が傷害や殺人のように“人を傷つける”種類の場合は。彼を取り巻く社会環境や家庭環境への同情を差し引いたとしても、ヘドが出るほどの嫌悪を感じる。
そんな卑劣な凶悪犯を、この作品はどう描いたか? その答えは、ぜひ劇場のスクリーンで確認してもらいたい——。
物語の大きな見どころは、ツォツィの赤ん坊に対する接し方にある。
ポイントとなるシーンはふたつ。
一つ目は、カージャックした車内にいた赤ん坊を(置き去りにすればいいものの)家に連れ帰ったシーン。
このシーンにおけるツォツィの心理については、さまざまな分析ができる。錯乱した精神状態が招いた衝動とみるもよし、生い立ちや家庭環境に起因する感情の“ゆらぎ”ととらえるもよし、動物的本能ととらえるもよし、単なる好奇心と考えるもよし。とにかくツォツィには、赤ん坊を連れて帰りたくなる“何か”があったのだ。
二つ目のポイントは、終盤、格差社会を象徴する高層ビル群を遠望する丘の上で、ツォツィが赤ん坊と向かい合うシーンである。
このシーンでは、赤ん坊を自宅に連れ帰ったシーンと異なり、ツォツィの明確な感情(動機)が描かれている。そして、このとき彼の胸に去来した赤ん坊への思いを想像することが、この作品を理解するうえでの大きなカギとなる。
赤ん坊を抱きしめるツォツィ。
美しいシーンだ。
赤ん坊との出会い、そして別れ。その間にツォツィに芽生えた「新たな感情の正体」を知るためにも、前述したふたつのシーンが持つ意味の違いを押さえておきたい。
前者は「漠然」で、後者は「明確」だ。
そして物語はクライマックスへと続く。
前半でありったけの残虐性を見せ、中盤でうつろう感情を見せ、ラストでツォツィ自身に“踏み絵”を踏ませようとする。嫌らしいほど巧みなドラマ展開である。
果たしてツォツィは、“踏み絵”を踏むのか、踏まないのか? それは、人間の本質や再生の可能性に迫る選択ともいえる。
ツォツィを演じたプレスリー・チュエニヤハエの存在感、シーンに応じて色味を変化させる雄弁な映像、鋭敏にしてダンサブルな南アフリカ流ヒップホップ・クワイトの音楽など、ありとあらゆる魅力が、ぜい肉のないこの映画に宿っている。
本作「ツォツィ」は、人間の本性が、凶暴なのか? 愛情なのか? その答えを見極めるべく、主人公自身に綱引きを強いた物語である。さしずめクライマックスは、その決勝戦といえるだろう。
エンドロールを見つめながら込み上げてくる深い感慨と感動は、作為的な美談から生まれるそれとは、少し違う。

お気に入り点数:85点/100点満点中

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