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映画批評「青い鳥」

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2008.11.28 映画批評
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11月29日より公開される「青い鳥」。
監督:中西健二 原作:重松清 脚本:飯田健三郎、長谷川康夫 音楽・主題歌:まきちゃんぐ 出演:阿部寛、本郷奏多、伊藤歩、重松収、太賀、鈴木達也、荒井萌、篠原愛実ほか 上映時間:105分 配給:2008日/日活=アニープラネット 
休職した担任の代りにやって来たのは、吃音をもつ臨時教師の村内先生。彼がクラスに来てまずしたことは、いじめを受けての自殺未遂が原因で転校した野口という生徒の机を——すでに片づけられていたソレを——教室のもとあった位置に戻す、という作業だった。以来、村内先生は、毎朝その机に向かって声をかけるのだ。「野口くん、おはよう」と。


村内先生の意図は伏せられたまま物語は進む。生徒にしてみれば、“野口の机”は、無言のプレッシャーだ。案の定、野口の一件の記憶はいつまでも教室内にへばりつき、一部の生徒はイライラを募らせる。
村内先生の意図は最後に語られるが、彼が何を言わんとしているかは、そのセリフを待つまでもない。生徒を過剰に庇護するのではなく、人間として当然取るべき“責任”について考えさせようという狙いが、そこにはある。
一方、本作の追及は、一刻も早く“机(=いじめ問題)”を片づけよう(=葬り去ろう)とする教師たちの態度にも向けられる。事実、美辞麗句の限りを並べ、生徒から画一的な反省を引き出そうとする教師陣のうすら寒さときたらなく、“臭いものにはフタ!”を黙認する大人社会の構造がダブる。
だからといって、村内先生のやり方に無条件に賛成できるかといえば、答えはNOだ。14歳の人間が備える責任能力の程度を見極めるのは難しいことであり、ましてや、臨時教師である村内先生が、野口の一件にまつわる真相を完璧に把握できているとは考えにくい。そうした状況下で、野口の机を戻したのは、あまりにヒステリックで乱暴なやり方と言わざるを得ない。
それでもなお、この映画に興味を引かれるのは、“野口の机を戻す”という行為に、問題提起としての鋭さを感じるからだ。要するに、現実に即した薄っぺらいリアリティではなく、人の心を多少強引にでも揺さぶろうとするフィクションとしてのインパクトこそが、この作品の価値。映画には、ときとして、こうした大胆な設定が有効なケースもある。
“野口の机を戻す”——そこから広がる波紋に光を当てた本作「青い鳥」は、ひとつひとつのカットに十分すぎるほどの行間と余裕をもたせている。まるで、生徒同様、観客にも考える余地を与えるかのように。なかには、記憶のかなたに眠る、かつての自分の罪を思い出す人もいるだろう。
気になったのは、いくら吃音とはいえ、同僚の話しかけに答えないなど、村内先生自身が抱える問題も小さくない点だ。また、教師というのは、愚直なまでに正論を吐けばいいというものでもないと思うが、村内先生を見ていると、あまりに型にハマリすぎていて、息がつまりそうになる。もしも生徒が同様の感想を抱いているとしたら、それこそ教育的な弊害がないとは言い切れまい。
いじめや教育に対する鋭い問題提起と、村内先生の教師としての資質に対する違和感。その二律背反は、そのままこの映画に対するジレンマめいた評価となる。

お気に入り点数:60点/100点満点中

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