「ダイアナの選択」
2009.3.11
14日より公開される「
監督:ヴァディム・パールマン 原作:ローラ・カジシュキー 脚本:エミール・スターン 撮影:パベル・エデルマン 美術:マイア・ジェイバン 音楽:ジェームズ・ホーナー 出演:ユマ・サーマン、エヴァン・レイチェル・ウッド、エヴァ・アムーリ、ブレット・カレン、ガブリエル・ブレナンほか 上映時間:90分 配給:2007米/デスペラード、日活
多感な思春期をすごしていた17歳のダイアナ(エヴァン・レイチェル・ウッド)。ある日、学校のトイレで親友のモーリーン(エヴァ・アムーリ)とたわいのないおしゃべりをしていたら、突如、同級生による銃乱射事件が起きた。トイレに入ってきた犯人は、ダイアナとモーリーンに銃を突きつけて、「どちらかを殺す」と言う。選択を迫られたダイアナは……。
「結末は決して口外しないようにしてください」——そんな映画が乱発される今日このごろ。本作「ダイアナの選択」も、そうしたラインナップの仲間入りを果たす作品だ。期待外れな作品も少なくない「結末口外NG作品群」のなかにあって、この映画は期待以上の驚きと余韻を与えてくれる。
銃乱射事件のただなかでしたダイアナのある選択が重要な意味を持つのだが、その選択が何なのかが、明かされているような、伏せられているような、よく分からない状態で物語は進む。観客をもてあそぶかのように。
実のところ、本作の結末に突っ込みを入れることは容易だ。がしかし、私には、この結末が何を伝えようとしているかが十分に理解できた。したがって、無粋な指摘をするつもりはない。この作品が投じた——“一瞬”と“未来”を対比させた——一石は、心のなかに誰しもがもっている“良心”という名の湖に着水し、鑑賞後に、その波紋をゆっくりと広げていく。少なくとも、こんなふうにして胸を突かれたことは、これまで一度もなかった。
ヒントもテーマも……何もかもが「ダイアナの選択」というタイトルに込められている。そして、そこに補足を加えるなら、人間は常に、そう、毎日、毎時間、毎分、毎秒、選択をし続けて生きている生き物である、ということだ。ゆえに、この作品のテーマは、この世に生きる誰もが無関係ではいられないものともいえる。
交錯する時間軸に、同一シーンのくり返し、象徴めいたシーン(たとえばプールの描写)など、ともすると思わせぶりととられがちな演出も、この作品が醸し出す、どことなく文学的な味わいにはマッチしている。入り組んだ展開を、不可解さを確信犯的に残しながら、なおかつ丁寧な撮影と編集でまとめたヴァディム・パールマン監督の手腕に拍手を送りたい。
17歳のダイアナをエヴァン・レイチェルウッド、大人になってからのダイアナをユマ・サーマンが好演している。ふたりの顔がお世辞にも「似ている」といえないところが残念だが、そんなアンバランスさもかすむほど本作「ダイアナの選択」は見ごたえがあり、また、咀嚼のしがいがある秀作だ。
銃乱射事件そのものは、この作品の核をなすものではないが、人間に究極の選択を迫るための狙いとしては、十分すぎる効果を挙げている。ただし、事件があまりにショッキングなだけに、犯人の動機を含めた事件の真相だけが置き去りにされた観は否めず、唯一、そこに歯切れの悪さを感じた。もちろん、その欲張りすぎない態度でさえ、テーマの焦点をぼかさないためのものであることは自明なのだが。
記事はお役に立ちましたか?
以下のソーシャルボタンで共有してもらえると嬉しいです。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓