「レイチェルの結婚」
2009.4.13
4月18日より公開される「
監督・製作:ジョナサン・デミ 脚本:ジェニー・ルメット 出演:アン・ハサウェイ、ローズマリー・デウィット、ビル・アーウィン、トゥンデ・アデビンペ、デブラ・ウィンガー、マーサー・ジッケル、アンナ・ディーヴァー・スミスほか 上映時間:112分 配給:2008米/ソニー
薬物治療の施設からキム(アン・ハサウェイ)が戻ってきたが、家のなかは、2日後に迫ったキムの姉レイチェル(ローズマリー・デウィット)の結婚式の準備で大わらわ。キムはなんとなく居心地の悪さを感じる。夜、家族や友人を集めて行われたディナーパーティの席では、出席者による祝福のスピーチが始まる。いよいよキムにも順番が回ってきたが……。
愛憎入り乱れる家族の素顔に迫った作品だ。父や姉は自然体を装いつつも、どこか腫れ物に触るようにキムと接する。暗に<キム、あなたはいいから、おとなしくしていて>という雰囲気。だが、キムはその態度を敏感に察知し、家族のなかに自分の居場所がないと感じる。すると、あらゆることをネガティブにとらえはじめ、駄々っ子よろしく周囲の関心を自分に引こうとする。
更生を目指すキムのような人間にとって、家族の理解や協力は不可欠だが、折につけ、父や姉はキムの神経を逆なでしてしまう。問題なのは、父や姉のふるまいウンヌンではなく、キムを傷つけていることに対する彼らの「無自覚ぶり」だ。がしかし、「無自覚」なのはキムとて同じで、家族の心配をよそに、身勝手な発言や行動をくり返す。要するに、そこにあるのは、意思疎通が不全に陥った家族の姿だ。家族の誰もが、胸にいちもつを抱え、自分の傷ばかりを主張し、相手を傷つけることには天才的な能力を発揮する。
キムに共感する人、レイチェルに共感する人、父に共感する人、母に共感する人、それぞれいるだろう。それはこの映画に登場する家族の問題が、決して特別なものではなく、普遍的な家族の問題を内包している証拠でもある。結局のところ、わずかなボタンのかけ違いや誤解、不運が災いして、家庭内に不協和音が生じることは珍しくないのだ。キムの家族においては、すでに別居している母親の存在も軽視できない。結婚式会場からそそくさと姿を消す彼女の姿は、この家族が共有する「無自覚」の象徴のようなものだ。
物語をレイチェルの結婚式前後の4日間に凝縮したうえ、まるでホームビデオで撮影したかのようなドキュメンタリータッチでつづった演出が秀逸だ。手持ちのカメラが、人々の生々しいやり取りを至近距離から収める。おそらく15分以上を費やしたであろうディナーパーティのシークエンスでは、ドキュメンタリータッチの効果(臨場感)が最大限に発揮されている。事実、出演者たちは、自分がいつ(カメラに)抜かれているのか分からない状態での演技だったという。
身内の結婚式という舞台にこだわったのは、この映画のしたたかさにほかならない。否が応でも家族がコミュニケーションを図らざるを得ない設定を用意することで、家族一人ひとりが抱える問題や、その根っこにある家族の歪みが次々と浮き彫りになる。と同時に、どんな状況においても決して切ることのできない家族の絆が存在することに、感情をゆさぶられる観客も少なくないだろう。
アカデミー賞主演女優賞ノミネートも納得のアン・ハサウェイはもちろん、レイチェルを演じたローズマリー・デウィットや、新郎を演じたトゥンデ・アデビンペも好演。母親を演じたデブラ・ウィンガーの存在もじつに強烈だ。また、結婚式を盛り上げる余興というシチュエーションを活かして、一流ミュージシャンの即興プレイをそのままBGMにしてしまうなど、ドキュメンタリー調ならではの特殊な演出を試みている点も、本作「レイチェルの結婚」の魅力といえるだろう。
家族とは「こうあるべき」などという説教じみた作品ではなく、ひとつの家族の姿を通じて、観客が、つい自分や自分の家族について考えてしまう。そんな映画だ。血のつながりとは一体何なのだろう、と。ひりひりするような痛みと、その痛みの先にかすかに見えた一縷の希望の光が、そこはかとない余韻を誘う。
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