映画批評「運命のボタン」
2010.6.2 映画批評
公開中の「
監督・製作・脚本:リチャード・ケリー 原作:リチャード・マシスン 音楽:アーケイド・ファイア 出演:キャメロン・ディアス、ジェームズ・マースデン、フランク・ランジェラほか 上映時間:115分 配給:2009米/ショウゲート
舞台は1976年のヴァージニア州郊外。高校教師のノーマ(キャメロン・ディアス)とNASAに勤める宇宙飛行士志望のアーサー(ジェームズ・マースデン)夫妻は、ひとり息子と3人で仲良く暮らしていた。ある朝、自宅前に身に覚えのないボタン装置が置いてあった。
その日の午後、自宅にやって来た老紳士スチュアート(フランク・ランジェラ)は、このボタン装置について驚くべき説明を始めた。それは「ボタンを押すとどこかであなたの知らない誰かが死に、あなたに100万ドルが入ります」というものだった。ふたりは悩んだ末に……。
「人間の道徳心」そして「選択と責任」についての物語だ。法律用語に「未必の故意」というのがある。たとえば、高速道路でわざと急ブレーキを踏むとする。当然、後続車は次々とブレーキを踏むことになる。すぐ後ろのクルマは衝突しなかったとしても、30台後方で衝突事故が発生して誰かが死ぬかもしれない。
つまり、自分の急ブレーキで誰かが死ぬ——その可能性があると分かっており、なおかつ、そうなってもいいと思ってした行為については、結果発生が不確実なものであっても「故意(わざとすること)」とみなされるわけである。
急ブレーキを踏んだ本人は、後方で死亡事故が起きたことには気づかないまま(何の責任も問われずに)一生を終えるかもしれない。あるいは逮捕された末に、相応の罰を受けることになるのかもしれない。お咎めのない「未必の故意」も世の中にはたくさんあるだろう。
いずれにせよ、この映画の裁きは、人を殺めるという具体的な行為に対してというよりは、当事者の心にはびこる利己主義に対して下される。幸福を手にしたはず(?)のノーマが「罪悪感」や「良心の呵責」に襲われて、まったくと言っていいほど笑顔を見せない。なんと皮肉含有率の高い残酷作品だろうか。
本作「運命のボタン」は荒唐無稽の世界に片足を突っ込みながらも、最低限のリアリティと緊張感を保ちつつ進む不条理ドラマだ。「ドニー・ダーコ」(2001年)で緻密な世界観を作り上げたリチャード・ケリー監督の采配は、本作でも安直な予定調和に流れることはない。「贖罪」というテーマを掘り下げながら、「選択する」ことの意味を観客にたっぷりと考えさせる。
ラストの重さはM・ナイト・シャラマン級。“ラブコメの女王”の異名を取るキャメロンの名前に釣られて劇場に足を運んだ人のなかには、あまりに予想外の結末に席から立てなくなる人もいるかもしれない。
動機のはっきりしないSF的な展開については賛否の分かれるところであり、究極の選択を強いるには脚本の練り上げも甘い。それでも「私は『利己主義』や『未必の故意』とは無縁で生きています!」と断言できる人間でもない限り、ノーマやアーサーに親近感をもつ&感情移入するのは必至で、上映中、彼らと同じ目線で「私ならどうするか?」という選択を迫られるはずだ。
不条理極まりない設定と、同情に流れない結末が相まって、鑑賞後には重苦しい余韻が残る。通常、世の中の多くの問題には出口(あるいは出口らしきもの)が用意されているが、この映画の出口はマゾ的なほど小さい。出口という名のギロチンだ。ノーマ夫妻の行動と結末についてどう感じたか? 他人と解釈をシェアしてこそ輝く映画ではないだろうか。
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