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映画批評「ミスター・ノーバディ」

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2011.6.29 映画批評
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公開中の「ミスター・ノーバディ」。
監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル エグゼクティブプロデューサー:ジャン=イヴ・アスラン 出演:ジジャレッド・レト、サラ・ポーリー、ダイアン・クルーガー、リン・ダン・ファン、ダニエル・メイズほか 上映時間:137分 配給:2009仏・独・カナダ・ベルギー/アステア
たとえば、あなたに好きな人がいるとする。しかし残念なことに、その人は明日旅立ってしまう。会えるのは今夜が最後。あなたは自分の気持ちを好きな人に伝えることもできるし、伝えずに立ち去ることもできる。
さて、ドウスル?


とかく「人生の選択」をテーマにした映画が生まれやすいのは、そこに「未来はだれにも予見できない」という“不確実性”が付随するからだろう。未来が見えないがゆえに、人は人生の分岐点における「選択」を、恐れ、ためらう。
“不確実性”というのは、映画にとって妙薬であり、うま味でもある。「選択」を要する分岐点に主人公を立たせることで、多かれ少なかれドラマが生まれる。「歓び」という味になるか、「哀しみ」という味になるか、はたまた「後悔」という味になるか、ドラマのお味は、煮立ててみてのお楽しみだが。
ところが、本作『ミスター・ノーバディ』は、こともあろうか「選択」という概念を放棄するという驚きのアプローチに出た。
2092年、人間は科学の力で不死の人生を手に入れていた。突然目覚めた108歳のニモ(ジャレッド・レト)は、他の人たちと大きく異なっていた。彼は永久再生化を施していない、世界で唯一の「死ぬことのできる人間」だったのだ。もはや天然記念物扱いの彼の一挙一動は、全世界に生中継されていた。
そんな折、ニモのもとにやって来たひとりの新聞記者が、ニモの過去に迫るべく質問を始めた。ベッドに身を横たえたニモは、おぼろげな記憶の数々をよみがえらせていくが、そこには虚実の境が見えない不思議な世界が広がっていた……。
1の道と2の道があった場合、通常、映画が描くのは、主人公が「選択」したどちらか一方の道だけである。ところがこの映画は、1の道も2の道も両方描く。さらに現れた分岐点では、3の道も4の道も描く。終わってみれば、あっぱれ、12の道(人生)を描ききったのである。
ある人生では、大好きな女性と激しい恋に落ちる人生を送り、ある人生では、事故に遭って寝たきりの人生を送る、といった具合にだ。だが、どの人生も紛れもなくニモ自身のものである。
こうしたパラレルな多重構造に対して「そんなのはおかしい!」と楯つくのは無粋といえよう。なぜなら、こうした不可思議なドラマ構造を通じて蒸留される「何か」に考察を加えることこそが、この種の作品の醍醐味だからだ。
少なくともこの映画は、簡単に感動を与えてくれるタイプの作品でも、安易に講釈をたれるタイプの作品でもない。観客側から積極的にアプローチをかけて、その真意を読み解くタイプの作品である。主人公が「ある重大な判断」を下す終盤のシークエンスは、この作品が紛れもない傑作であることを決定づける。いやはや、たまにこういう作品に出合うから映画鑑賞はやめられない。
ジャコ・ヴァン・ドルマン監督は実にお優しい。複雑な映画を見慣れていない人たちが迷子にならないよう、随所に工夫と配慮をちりばめている。「私は迷子になってしまうかも……」と不安な方は、スクリーンを彩る「色」に注意しながらストーリーを追うといいだろう。
「選択」という概念を手放した『ミスター・ノーバディ』という作品の評価と解釈は、一人ひとりの観客に委ねられているが、私自身は、どんな道にも、例外なく「喜怒哀楽」、さらに鳥瞰するなら「幸・不幸」が存在している点に、ひとつの理解を得ることができた。極端な言い方をするなら、「選択」、それ自体に大きな意味はない、ということだ。
パラレルに展開される12の物語を破綻させることなくまとめあげたジャコ・ヴァン・ドルマン監督の鋭い論理的思考と、芸術性に優れた絵作りに脱帽だ。右脳派にも左脳派にも訴えかける力を持っているが、むろんそれは、万人受けするという意味ではない。脳の全領域をフル稼働させた者だけに、ようやく示唆めいたものが見えてくるという、そういう映画である。手ごわいが、代え難い余韻が味わえる。

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